懐疑と猜疑 (語義と用例)

・懐疑(かいぎ) うがいを持つこと
・猜疑(さいぎ) ねたみうたがうこと
(1952年版、明解国語辞典(三省堂))
・懐疑 なんでも(いつまでも)疑って、決定的な考えを持つことが出来ないこと。
・猜疑 相手を信用する気になれず、何かしら自分に不利な事をするのではないかと疑うこと
(1997年版、新明解国語辞典第五版(三省堂))

説明が冗長になっただけでなく、使い方の間違いを追認している。本来、懐疑は肯定的ないし無価値。猜疑は否定的なもの。約半世紀前の日本語がより簡潔で正確であったことがうかがえる。「懐疑と猜疑は違う」という用例は第五版では排除される。

― 1991年、広辞苑第四版(岩波書店)

米国国民が「陰謀説好き」なのは、国家や社会の影に光を照らそうとする、健全な猜疑心の表れといえるかも知れません。「流される」を良しとしない心・・・・・・それは、いい意味での、米国の独立精神、「自由な言論」の思想にも通じているように思うのです。

― エム=ハーガ『アポロってほんとうに月に行ったの?』(朝日新聞社、2002年、本文124ページで 980円!の黄色い本)の芳賀正光氏の「訳者あとがき」(p122)より。(上の3つの辞書のどの語義とてらしてもありえない用例)

われわれが生きていくためには懐疑的精神、懐疑的思想が必要なのだ。・・・疑いのないところに理論はない。(p14)

ロシア革命が固定してしまったのも、ロシア革命がその革命当時もっていた徹底的な懐疑のエネルギーを失ってしまったということではないのか。スターリンは懐疑を失って、猜疑におちいってしまったのではないか。(p17)

― 羽仁五郎[1901〜1983]ほか『現代の革命の論理』(1972年、自由国民社)