文化講座「伊那電の開通と中津川線」

 飯田市美術博物館で、10月27日に「伊那電の開通と中津川線」というテーマの文化講座があります。どんな話なのかいってみようと思います。

伊那谷の悲願が実って開通した現飯田線の伊那電気鉄道と、計画途中で頓挫した国鉄・中津川線についてお話しします。

 「悲願が実って」というとなにかリニアみたいですが、実は違います。後日、報告するつもりです。

(2013/10/21)

 講座の要点は以下:

 1892年に公布された鉄道敷設法が定めた国が敷くべき鉄道の一つに中央線として、八王子または御殿場から甲府と諏訪を経て伊那谷または木曽谷を通って名古屋にいたる路線があがっていましたが、伊那谷への誘致は失敗しました。そこで地元の有力者たちは私鉄路線として株式を公募し伊那電気鉄道(伊那電)を設立し(1907年)、1923年8月には辰野と飯田市の間が開通しました。1937年には、辰野と豊橋の間の、伊那電、三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道の連絡路線が全通しました。伊那電以外の鉄道もみな私鉄でした。1943年、これらの鉄道会社は戦時買収によって国鉄飯田線となりました。
 飯田市と南木曽または中津川を結ぶ路線も大正時代から国の計画にあがっていました。国鉄によって1968年に起工されましたが、一部工事が行なわれましたが、1980年に凍結されました。

 飯田線の前身の伊那電そのほかの鉄道はいずれも私鉄として敷かれました。中津川線は国がはじめて途中で事実上中止になりました。リニアは国家的プロジェクトでありながら現在は民間企業であるJR東海が僭越にも名乗りをあげて事業を進めようとするものです。どちらの事業についても地元は誘致する以外のことはしていないようです。伊那電を開通させた先駆者達は願うだけでなく実行しました。当時は近代的な交通機関がなかったという事実があると思います。そして今は100年前とは時代が違うと思います。リニアというのは、本来地元にとって必要のないものを願っているように思います。

 飯田線は最近は駅員さんがいる駅がほとんどなくなりました。JR東海自身が説明するところによれば、リニアはそれだけでは採算が出ないので、現在の新幹線と一元的に経営することで利益がでる(損がなくなる)のだそうです。JR東海はドル箱の新幹線のほかに採算のあわない路線をもっていて、その一つが飯田線です。リニアという採算のとれない路線をもうひとつ抱え込んで、飯田線の先行きはどうなるのでしょうか。飯田線はリニアと違って物資の輸送ができます。伊那電は関東大震災の約1ヶ月前に飯田まで開通していたので、救援物資が鉄道で東京へ向けて送られたそうです。地元にとっても全国的にみても価値のあるのは飯田線だと思います。今は自動車があるじゃないかという人のために、ひとつつけ加えると伊那電は電気をすべて地元の水力発電で調達していました。

(2013/10/28)

(補足) 主催者のページのリンク切れ。講師は飯田市歴史研究所の調査研究員の本島和人さんです(参考)。