(2016/04/08) 3月16日の名古屋市中村区で行われた学習会の詳しい報告が「東濃通信」4月8日 に載っています。


リニア建設 移転は拒否できる

"関係する地域住民が分断されないように、同じ状況の人が協力して立ち向かいましょう"

 さて、リニア建設で移転を迫られることになる方たちや、周囲の住民から「決まったことだから」とか「JR東海はお殿様、そこのけそこのけお馬が通るでしかたない」という言葉が聞かれます。はたしてそうなのか。

 「東濃通信」の3月27日付けが名古屋市内であったリニア建設関連の学習会の様子を伝える『赤旗』の記事を紹介しています。

 要点は、建設側にとって、地権者側がしっかりしているなら、土地を取得するのはそんなに簡単なことではないということ。講師の樽井弁護士は「関係する地域住民が分断されないように、同じ状況の人が協力して立ち向かいましょう」と話したそうです。

 JR東海がいくら大企業であって、リニアが国土交通大臣の工事認可を受けた事業でも、JR東海と個々の地権者は対等で話し合いで双方納得して契約を結ばなければならないというのが大原則。大原則をいわばこの無理やり曲げるのが土地収用法です。だから、土地収用法で土地を強制収容する事業はごく限られた事業です。そして、かつ最小限の範囲でなければならないはず。とすれば、日本は地形が複雑ですから、国内の2地点を直線で結ぼうとするインフラを建設しようという考え方そのものがそういう大原則に反するもの。

 成田空港の滑走路の長さはせぜい約4.5㎞。成田空港ができるまでにどれだけの反対があったか思い出せば、全長約300㎞のこのリニア計画がどれほど乱暴で暴力的な計画か簡単に見当がつくはず。

 「決まったことだから」という点。移転対象の方が「何の相談もないのに」といっていましたが、移転対象者に事前の相談もないのに、国会で審議もされていないのに、国土交通大臣の「きまぐれ」で工事の認可をしてしまったという事実からすれば、実は本当は「決まっていない」。

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成田問題についてネットで見つけた文書を紹介します。教えて!goo:成田空港建設に反対(笑)デモに参加した人たちはへの回答の一つです。

質問 (質問日時:2012/12/30 13:15)
成田空港建設に反対(笑)デモに参加した人たちは
その後は一切成田空港を利用してませんよね?ていうか利用していたらおかしいですよね。
ていうか今でも反対派(笑)がいるのがびっくりだし諦めたらどうなんですかね。

ところで何で成田空港は建設に反対されていたんですか?今でも反対派(笑)がいるけど。
回答 No.12 (回答日時:2012/12/31 03:44)
 質問者様はおいくつなのかわかりませんが、いまどき成田空港の反対闘争が質問に上がるとは思いませんでした。しかし、既出回答を見ているとイデオロギーのレッテルでしか理解しない人が多いことに驚きました。率直にいって、百害あって一利なしだと思います。

 東京圏の新たな国際空港は、当初成田近傍の富里村に計画されていました。しかし、反対運動が起こったことから1966年に突然、成田市三里塚、芝山町に建設が決定されます。御料牧場や国有地があったこと、開拓民からの用地買収は難しくないと判断したことが理由だと言われています。しかし、この決定にいたるまで、住民の同意を得る努力はまったくなされませんでした。
 この初期動作の手抜かりが以後反対運動を盛り上げる原因となります。ですので、開港後も隅谷三喜男氏らを仲介役とした話し合いが続けられ、最終的には政府があやまりを認める(謝罪する)ことで、1995年に事実上解決しました。

 成田空港反対闘争といえば学生の過激派のイメージが強いかもしれませんが、当初はあくまでも自分たちの「故郷」が政府の命令ひとつで奪われることに対する地元民の抵抗が起点です。この時点ではまだ社会党なども熱意を見せていませんでした。いわば「孤立無援」と感じていたところに学生たちが協力を申し出てきたのですから、一抹の警戒感はあったようですが、拒む理由はなかったでしょう。
 また、学生たちのほうでも、組織や団体にどのような思惑があったにせよ、個々人では結構単純な義憤にかられて、という人も多かったそうです。
 たしかに他回答者が指摘するとおり、過激派組織の側ではいつも火種になるような事件を探していましたし、自分たちで火をつけようともしていました。しかし、この努力の多くが成功しなかったことからわかるとおり、国民の大多数は過激派の思惑だけで騒ぎ始めたりしません。
 成田闘争については、国民の少なからざる部分が「政府のやり方はひどいよな」と思えたから運動も盛り上がりを見せたのです。その後の運動の過激化に引いてしまった人も多かったのですが。

 政府の事業にともなう用地の買収、土地の収用はいまでも問題になりますが、行政の側でも成田の失敗を教訓にして、形だけでも住民の同意を得なければならない、それこそ札びらでほほを張るような真似をしてでも、と行動様式を変えました。言うまでもなく、金に物を言わせるのは良いことではありませんし、行きすぎた事例も聞きおよびますが、それでも住民の同意が前提、と考えるようになったことは、わたしは一歩前進と評価しています。ただし、あくまでも「一歩」にとどまります。

 なお、反対闘争そのものはすでに和解にいたっていますので、かつて運動に参加していた人たちが成田空港を利用することが問題だとは思いません。なかには海外に行くにも成田を避ける人もいると聞きおよびましたが、まあ奇特な例外でしょう。
 それよりも、こういう歴史を都合よく忘れる人たちのほうが問題ではないでしょうか。政府を信頼するのも結構ですが、政府とは国民のためにあるのであり、一地域の住民であっても国民であることに変わりない。これが北朝鮮とは違う日本のあり方です。昨今では自分の気に入らないものをすぐに「反日」などと断定する風潮が広まっていますが、じつに困ったことです。

 公害問題が騒がれていたころ、これを「左翼」の運動であるとして蛇蝎のごとく嫌う人たちは大勢いました。たしかに左翼や革新勢力が熱心だったのはまちがいないでしょうし、実際の運動には行きすぎや誤りがあったこともまちがいないでしょう。しかし、これらの運動の成果として、わが国の行政は環境に配慮するようになっていったし、国民の意識のうえでも環境問題は重視されるようになりました。行政や専門家に任せているだけでは、けっして解決しなかったでしょう。
 政府などの事業に反対する運動への反発は心情としてわからなくもありませんが、「左翼」のレッテルを貼って理解したつもりになるのはあまりに浅薄です。現実に向き合わないかぎり、問題は解決しません。

(2016/03/28)