更新:2019/04/16
高森町下市田河原(ガイドウェイ組立ヤード)、2019年4月15日
リニアのガイドウェイの組立・保管ヤードが計画されている高森町下市田河原の様子です。以下紹介する、写真を見てわかる通り、もともとは江戸時代にできた惣兵衛堤防によりできた水田地帯でした。南の方の一部が80年代初め頃工業団地として造成されました。現状以上には開発はせずに、優良農地として保全するという町の方針が最近になって、急に変更になり工業団地を拡張する方向になりました。ガイドウェイの組立・保管ヤードの候補地の申請もその流れの中にあるのか、そちらが主なのかは微妙なところ。下の図は3月29日に行われた道路水路等の整備改革についての説明会で配布された航空写真です。近隣に住む方からいよいよ始まったと聞いたので改めて見てきました。
「1」から北東、南東、南西、北西をぐるっと見回したのが次の4枚の写真。
遠景中央は陣馬形山。左に大島川による扇状地、出砂原が見えています。
一番高く見える山は鬼面山。手前の中央やや左の山の左の谷に虻川。この上流のジンガ洞に130万立米の残土を投棄する計画があり、下流域に及ぶ災害が懸念されます。
80年代前半に造成された工業団地。左の砂利の山は生コン会社の材料置場。
暗い緑色の部分は断層運動でできた段丘。段丘上、右の方に見える桜は高森南小学校の校庭の桜。
工事が始まったというのは、「2」で、ここへは工業団地になる部分で、飯田市内の国道153号線にある「いすゞ自動車」が移転の予定で、松川ダムの堆砂を運び込み始めたところ。「3」に積まれている(下の写真)のも松川ダムの堆砂。ダムから直接運んでいるのか「3」からなのかは未確認。
午後3時頃撮影。町役場のものらしいマイクロバスで、どういう人たちかわかりませんが現場視察をしていました(下に部分を拡大)。
下市田区の役員さんたち?かも。住民に危険が及ぶ話でも、情報が区や自治会の役員どまりになってしまう傾向がありますね。
航空写真でオレンジ色の斜線で示された工業団地として造成される部分の工事が始まったということで、ガイドウェイのヤードにはまだ手がついていません。説明会では、耕土(今ある田んぼの土)をはぎとるはずということなのですが、見る限りはそのまま田んぼの土の上にダムの堆砂を埋め立てているように見えます。
このことについてある方に聞いた話では、許可がまだとれていないので、ダムの堆砂は仮置きなのだそうです。許可がとれたら、仮置きした土砂をいったんどこかに移して、耕土をはぎ取って、たぶん豊丘村壬生沢の残土捨て場に移動して、それからダムの堆砂で用地を造成するという話でした。許可がとれて造成工事ができる段階になってから、耕土をまずはぎ取って、ダムの堆砂を運び込めばよいのに。なんとも面倒くさい無駄なことです。この造成はリニアとは直接関係ないですが、リニアに引きずられて起こった話のように思います。無駄が多いこともリニアと同じです。許可だって高森町長には農地転用の権限があるのです。なんか、わけのわからない話です。
下市田河原風景
砂というか砂利の山は「高沢生コン下市田ストックヤード」(「4」)。リニアの残土じゃないので誤解しないように。よく見ると鉄筋コンクリートを砕いて造った骨材もあります。遠景の山々も砂利の山も山に違いはないわけで、南アルプスはどちらかと言えば砂利の山に近いやわらかさで、崩れやすい。そこにトンネルを掘らなければならないリニアって、やっぱり無理と思います。
田んぼの中にゴミが捨ててありました。ガイドウェイヤードの説明会のとき、ゴミのポイ捨ての対策をきちんとして欲しいという要望が耕作者からでていました。
最後の写真は、工場らしい工場として最初に進出してきた「トキナー」のちに「HOYAプレシジョン」(1990年3月)のあった工場で、HOYAプレシジョンが撤退したあと、現在は「飯田精密」(2010年1月)です。工業団地が出来たのは1985年頃だったと思います。「トキナー」が来てから、この工業団地全体が埋まるのに何年かかったことか。(※)
- 「1990(平成2) 3月:トキナー光学(株)の長野工場を買収。社名をHOYAプレシジョン(株)とする。」(HOYAグループオプティクス事業部沿革)
- 「平成22年 1月 飯田精密株式会社 高森町へ本社移転」(飯田精密株式会社 会社概要)
訂正 ※
※印の段落、工業団地の真ん中をはしる道路を工業団地の造成以前から数十年通勤に使ってきました。そんな中での記憶に基づいて書きました。トキナーが出来た時期を調べていて記憶と事実がかなり違っていることがわかりました。
最初にできたのは、トキナーの向かい側の敷地の旭松食品(着工1986年7月)。トキナーは、1987年着工。1988年までに16社がでてきてすべての区画が埋まったという記録がありました(『公民館報たかもり・縮刷版 第3巻』)。
調べる中で、誘致計画が出てきたころに、三六災害から20年をかけて復興してきた農地なのにという意見、地盤が柔らかいので精密工業には向かないとか、水害の心配をする企業もあるといった意見もあったようです。飼料とするワラがとれなくなることで酪農家が困るといった意見も。町としては、税収増、雇用を創出するという意図があったようです。期待に反して工場としては食品関係が多いといった記事も。精密工業としてはトキナーが最初だったことは間違いないようです。
しかし、1992年に工業団地内で「ロシア宇宙博」というイベントがあったという記事もありました。突風で会場のテントが壊れるというハプニングもありました。この土地は天竜川の堤防のすぐ内側の大きな空き地で行われたものでした。ある企業が取得した土地が一向に使われないことが議会で問題になったという記憶もあります。また、16社の進出で事業は完了という記事の付図にちょっと疑問の部分もありました。も少しきちんと調べてみる必要はありそうです。
この工業団地事業の発端は1970年頃の政府の農業地域で工業を起こすという政策だったようです。
そして、事実とは異なるのですが、工業団地全体が埋まるのに何年かかったことかという感慨を持っている人は意外に多いような気もします。それは、直接的には工業団地で利益を得たと感じる人、あるいは利益のあった人が、意外に少なかったということなのかも知れません。
惣兵衛堤防が出来たのが1752年。以後、工業団地の造成が始まる1985年頃まで約230年。工業団地の造成から現在までが、34年。全面が水田だった時代の豊かな景観を思い起こすと、近代産業の歴史は意外に浅いと感じることも否定できません。
国土地理院の空中写真・衛星画像の1974~1979年