更新:2019/09/03

「科学技術ジャーナリズムの役割」

 仲間のIさんが教えてくれました。岩波書店の広報雑誌『図書』の9月号に、科学史家の山本義隆さんの「科学技術ジャーナリズムの役割」という文章が載っています(p12-15)。『図書』は書店で無料でもらえます。短い文章なので是非読んでみて下さい。

 原発については最近は批判的な人が増えています。しかし、はじめから、事故が起きた時に大変なことになること、使用済み核燃料の後始末がほとんど不可能なことが指摘されていました。しかし、科学技術のもたらす「明るい未来」として宣伝されてきました。大きな事故が起きて、やっと問題点がわかるでは困ってしまします。だから、

 中央官庁や大企業と一緒になって科学技術のもたらす「明るい未来」を語ることではなく、そういった宣伝の背後にある問題を発(あば)きだすこと、「啓蒙」ではなく「批判」を中心にすること、このことこそが科学技術ジャーナリズムの役割であり使命…

 山本さんは、リニアを「暴走するプロジェクト」の典型として取り上げています。

 リニア新幹線についての啓蒙書はいくつか出ています。たとえば、村上雅人・小林忍著『超電導リニアの謎を解く』。著者はジャーナリストではありませんが、出版社がこういう啓蒙書を企画するときはジャーナリスト的な視点を持つべきだと思います。

 10㎝浮上する超電導リニアの方が、1㎝しか浮かない常電導より高速走行に適しているし、地震の時にも安心と言われているんですが、これはじつは、国交省が発信元。

 第2章、9節の「常電導の終焉」。トランスラピッド(上海のリニア)は浮上量が1㎝と少ないので「列車と軌道がぶつかる危険が常にあり、地震などの緊急時のときにも心配」として、「上海のトランスラピッドの走行の様子を見ていると、暗くなったときに、火花が散ることがあります。これは、軌道と車両が接触しているためと考えられます。」(p42~43)と書いています。

 これを読んでハテナと思いました。トランスラピッドはモノレール式のガイドウェイ(軌道)を走ります。列車が軌道と接触する可能性のある部分は車体の内部に隠れています。つまり外からは見えません。走行中に火花が散るという説明は証拠写真でもないかぎりにわかには信じられません。これと似た話は、JR東海の名誉会長が1987年12月にトランスラピッドの実験線を視察した時のエピソード。同行した国鉄時代からリニア開発に携わってきた技術者がトランスラピッドの欠点をいろいろ話したようです。故障のため試乗できなかったのですが、その技術者は午前中の試験走行で腹を擦って車体の温度が上がったので冷まさなければならいからと解説したそうです(『飛躍への挑戦 東海道新幹線から超電導リニアへ』ワック、2017年3月)。

 トランスラピッドはドイツの技術です。確かに、ドイツではすでに開発は終わっているし、ドイツ国内の敷設計画は中止になりました。上海の路線の市内への延伸計画も、杭州への路線も中止になりました。だからといって「常電導の終焉」と言えるのか? ドイツの場合は需要の予測が過大すぎたことが、中国では建設に多額を投じたのに回収できそうにないというのが主な理由でした。一方で、超電導リニアにくらべトランスラピッドの技術はシンプルにできているという評価もあります。技術的に優劣はないという専門家もいます。

 1970年代に、ドイツではシーメンス社が超電導方式を開発していました。しかし、1978年ころまでに、ドイツの、シーメンスを含む数社のメーカーは共同で常電導方式のトランスラピッドを開発することに決めました。超電導方式には将来にわたって克服しえない欠点があると見極めたからです。ドイツだけでなく日本でも、日本航空がHSST(後のリニモ)の開発を始めるとき、超電導方式の欠点を理由に常電導方式を選んでいます。トランスラピッドもリニモも15年近く前から営業路線を走っています。 常電導方式の路線は、日本、韓国、中国で全部で5つの路線が営業しています。超電導方式は、はるか昔に死亡宣告を受けたゾンビ技術じゃないかと思います。

 科学技術ジャーナリズではないですが、科学的、技術的な側面で、リニアについて批判的に論じているのが、武蔵野大学工学部教授・阿部修治さんの「リニア新幹線:限界技術のリスク」(2019年2月8日の講演の要約)。阿部さんには、「エネルギー問題としてのリニア中央新幹線」(『科学』岩波書店、2013年11月号)があります。また、『環境と公害』(2019年夏号)がリニア特集を組んでいます。その中にも阿部さんは寄稿しています。

 『月刊まなぶ』(2019年8月号、労働大学)にも「特集ストップ!リニア新幹線」があって、阿部さんの前述の講演の要約が掲載されています(こちらはいくつか図版あり)。

 超電導の技術そのものをめぐる一般報道や啓蒙書にはやはり不十分な面があると思います。