愚公山を移す

 リニアに関連して気になる故事成句。毛沢東は1945年6月の演説の中で日本軍と国民党軍を二つの山に例えました。

勉めて已(や)まざれば大事も必ず成功する

 無理と思える大事業でも取り掛かって一生懸命やれば成功するという意味で普通は使われますから、JR東海さん頑張ってねということになりますが・・・。

 故事が残土について触れている点、財務担当が難色を示したこと、山の主が蛇神であること(蛇紋岩)が興味深いです。山の主の神も山を崩されてはたまらないと思い、天帝もそう考えたから、天帝は山をそのまま別の土地に移動させたことに注目。故事の時代はもちろん、毛沢東の時代も、プレートテクトニクスの知識が普及していなかった時代の話です。実際にはかの地が平坦であることを説明した故事ですから、直線の道は元から山のないところに作れと解釈すべきではないでしょうか。そして山を崩すようなことは元来すべきではないのだと。

(2014/01/27)


補足 2018/09/09

故事

 太行山 ( たいこうざん ) と 王屋山 ( おうおくざん ) は、広さは700里四方もあって、もとは 冀州(河北省)の南、河陽(河南省)の北にありました。

 この2つ山に面したところに住んでいた北山の愚公(ぐこう)という老人は、年齢は90歳近くでしたが、山が邪魔して出かけるたびに遠回りしなければならないのにうんざりして、家族を集めて言うには、「 私は、お前たちと力をあわせてあの険しい山を平らにして、予州の南まで道を通し、漢水の南まで行けるようにしたいと思うが、どうだろう。」

 彼の家族は口々に賛成しましたが、ただ、愚公の妻だけが、「あなた方の力では、小さな丘でさえも崩すことはできないでしょう。まして、あんな大きな山はなおさらです。それに、崩 した土や石をどこに運ぶというのです。」と反対しましたが、皆、「それは、 渤海 ( ぼっかい ) の隅っこか、 隠土 ( いんど ) の北にでも捨てよう。」と答えました。

 かくして愚公は、息子や孫たちを引きつれ、岩石を砕いて、土を掘りかえし、もっこで渤海の隅に運びだしました。愚公の家の隣人で、京 城という名前の未亡人にやっと7つか8つになったくらいの男の子がいましたが、その子も大喜びでこの仕事に参加し、寒暑の季節の変わり目にやっと1往復する有様でした。

 黄河のほとりに住む 智叟 ( ちそう ) という老人は、この様子を見て笑い、忠告しました。 「あんたの馬鹿さ加減といったら話にならないよ。老い先短いあんたの力では、山 の一角だって切り崩せないだろうに。」

 すると愚公は、ため息をついて言いました。「あんたの頭の固さは、手のつけようがなく、隣の家の坊やにも遠く及ばない。良いかね。私が死んでも子供は生き残り、その子供は孫を生み、孫 はさらに子供を生んで、子々孫々途絶えることはない。一方、山は増えるわけじゃない。だとすれば、いつか平らになるときが来るだろうよ。」

 智叟はこれを聞いて返す言葉もありませんでしたが、この様子を見て恐れた2つの山の神は天帝に報告しました(※)。天帝は、愚公の真心に感心し、夸娥氏の2人の息子(力持ちの神)に命令して、2 つの山をそれぞれ別の場所に移してやったので、それ以来、周囲には小高い丘さえもなくなりました。
(「科学技術振興機構」より)

※ 漢文では「河曲の智叟、以つて応ふる亡し。操蛇の神之を聞き、其の已まざるを懼るるや、之を帝に告ぐ。」(フロンティア古典教室:『愚公移山』原文・書き下し文・現代語訳 より)。成语故事【愚公移山】(イーチャイナ池袋校 中国語教室) では、「蛇のように曲がりくねった杖を持ったある神様は、愚公と智叟の対話を聞き、愚公一家の行いを見て、愚公は本当に山を移してしまうのではないかと心配しました。そこで天帝に報告しました。」。